土井けいじの徒然なる読書記録。

読書大好き土井けいじが、本を紹介していくブログ。

土井けいじがスポーツ漫画を通して感じる価値観

こんにちは。土井けいじです。

今回は土井けいじが大好きなスポーツ漫画について書きます。

その中で、各時代の価値観とともに変わりゆくスポーツ漫画の「価値観」について土井けいじの思いを書いていこうと思います。


先日、前回の記事でも紹介した、井上雄彦先生の名作バスケットボール漫画、「SLAM DUNK」の新作劇場版アニメ「THE FIRST SLAM DUNK」を観に行きました。

公開前からかなりの期待をしていたので、辛口の土井けいじの期待値を越えるのは難しいのでは!と思っていましたが、さすが井上先生!心配していた自分が恥ずかしい、必ずもう一度観に行く!とその場で決めた程、ワクワク、ハラハラが止まらない最高の作品でした。

調べたところ、2022年12月3日の公開から51日間での興行収入が89億円を突破しているとのことです。

観客動員数は約610万人を記録し映画観客動員ランキング(興行通信社調べ)では、8週連続で首位を獲得をするなど勢いが止まりません。連載終了後もこうして日本の漫画界を盛り上げてくださる井上先生には感謝です。


と言いつつ、今回は映画の内容のお話ではなく、幼いころからスポーツに打ち込んでいた土井けいじの目線でスポーツ漫画の「価値観」について書きます。


日本にはスラムダンク以外にも世界的に人気を博している作品が数多く存在します。野球漫画なら、「タッチ・メジャー・ダイヤのエース」、サッカー漫画なら「キャプテン翼エリアの騎士・シュート!」バスケット漫画なら「スラムダンクあひるの空黒子のバスケ」、ボクシングの漫画なら「はじめの一歩・あしたのジョー」、バレーボール漫画なら「ハイキュー」、テニス漫画なら「テニスの王子様」、アメフト漫画なら「アイシールド21」挙げだすときりがないくらいさまざまなスポーツ漫画が誕生しています。

スポーツ漫画を読んだこと、そこで描かれている価値観に触れたことがきっかけでそのスポーツを始めたという方も多く、現在プロとして活躍しているスポーツ選手の中にも、子供の頃に読んだスポーツ漫画に憧れて競技を始めたという方も少なくありません。

漫画がキッカケとなって世界的に活躍しているなんて、やはりスポーツ漫画が与える影響は素晴らしいですね。


土井けいじは、スポーツ漫画は時代の価値観の変化に合わせて価値観が変わってきていると感じています。昔は日本で盛んな競技であった柔道や野球を描いた作品の数々が世に送り出されていましたが、次第にサッカーやバスケとそれまで注目されていなかった競技を取り扱うようになり、今では競技ダンスに競技かるたとマイナーな競技も次から次へとアニメ化するようになりました。


スポーツ漫画の重要な変化として、題材に選ばれる競技の多様化も挙げられますが、昔の漫画で描かれた「倒れるまで諦めない努力と根性の重視」という価値観から、最近の漫画で描かれている「チームメイトとの協力と各々の個性の重視」という価値観の変化が見られます。


「叩いて伸ばすスポ根時代のトレーニング」

1960年代から1970年代のスポーツ漫画を貫いていた価値観は、「あまりにも厳しいトレーニング」です。その代表例は1966年「巨人の星」にある星飛雄馬が父親に装着させられた大リーグボール養成ギブスです。この時代は虐待や体罰と何も変わらないトレーニングが、強くなる為に欠かせないものとして当たり前のように描かれていました。早実高校野球部の地獄の猛練習は飛雄馬も驚愕する程であり、監督の殺人ノックはボールが見えなくなる夜間も行われ、反吐を吐いた部員が現れても、体調を心配するどころかグラウンドを汚すなと叱り付けるような描写まであります。

この時代は素振り1000回に腕立て伏せ3000回とトレーニングの「回数」に力を入れますが、そのトレーニングが具体的に身体の何を鍛えて、どの様な形で試合に活きるのかは細かく語られません。


きっと、「とにかく必死で頑張ること」を大事にしようという価値観が、その原因ではないかと思います。


この価値観を否定するつもりは決してないのですが、土井けいじの価値観からすると、闇雲にバットやラケットを振っても、上達するどころか逆にフォームが崩れて変な癖が染み付いてしまう気がするのですが、トレーニングは読者へのインパクトを重視して質より量で決まる。主人公達を指導するのは有名なコーチのはずなのに、専門的な知識を交えた参考になる意見は殆んど口に出さず、異常と思える量のトレーニングを課す、「身体に教え込ませる」という価値観に根差したトレーニングばかりで、基本的に「習うより慣れろ」という昔ながらの価値観が踏襲された感じです。

その過程で精神も肉体も耐えきれずに退部を申し出る部員も出てしまいますが、それに対して部長やコーチは「やる気が無い奴は辞めてもいい」という価値観で、あっさり切り捨てます。


今時のスポーツ漫画は読者に身近な才能も根性も持たない平凡な部員を用意して、その部員の成長も丁寧に描写する傾向が見られますが、スポ根全盛期にはヒーローになれないタイプの部員は早々に脱落する展開が多い気がします。


このことも、スポーツ漫画を貫く価値観が時代に応じて変化している、ということの証拠でしょう。


「努力と根性があれば勝てる」。

―この言葉は「誰にでも勝利するチャンスがある」という夢を抱かせる反面、「勝利しないのは本人の努力と根性が足りない為だ」という価値観のもと、結果を出せていない人を冷たく突き放すものでもあります。もちろん、「勝利に必要な根性を身に付けさせる」という立派な目的もありますが、それでもやはり、一部の人にとっては冷たい価値観と言わざるを得ないでしょう。


今ではこのような、身体に過負荷をかける行為を「暴力」や「いじめ」として、極端に嫌う価値観が主流です。

しかし、どういうわけか、弱小校の暴力は問題にされても、強豪校の暴力は「指導」の一言で済まされてしまう。


調べたところ、その背景には1964年に開催された東京オリンピックにおいて、精神論を全面に出した練習方法で成果が出たこと、そして1955年から1973年まで続いた高度経済成長があると考えられています。高度経済成長期は今みたいに週休2日が常識ではなく仕事は大変でしたが、その苦労に見合う昇給が社会の構造的に約束されたようなもので、年々日本が物質的にも豊かになっていく実感が得られた状況も影響して、「努力は報われる」という価値観が世間に浸透していたと考えられています。


しかし上記の体育会系にありがちな努力と根性を美徳とする価値観は、日本社会の成熟と停滞に伴って力を失い始めました。

努力と根性の支持が弱まる背景には、努力が報われない経済的な状況もありますが、それ以外にもスポーツ科学の発展と子供の人権を尊重する価値観の変化もあったと考えられます。

努力が封じられた時代を生き延びる術

1980年代には努力と根性が時代の本流から外れて、死ぬ気でトレーニングを続けていれば勝てると考える作品は少しずつ減り始めます。「休息も大切なトレーニングである」という価値観が世間に広まり、現実の部活におけるトレーニングも改善の兆候が表れるのですが、この方向に進むとスポーツ漫画に天才型の主人公が溢れるという問題が発生してしまいます。

従来のスポ根であるなら、試合で主人公が勝利した要因を、朝から晩まで寝る間も惜しんでトレーニングに励んだおかげであるとはっきり言えます。仮に主人公が体格や才能に恵まれていないとしても、周囲が狂気を感じる程の凄まじい努力で実力差を埋める。しかし時代的な圧力を受けて主人公が常識の範囲内のトレーニングしか行わなくなると、「努力したから勝てた」という言葉に説得力は生まれません。

自分の限界を超えない程度の努力は、強豪校なら当たり前のように行っています。主人公が人と同じ位の努力で試合に勝てたとするなら、それは潜在的に才能があるからということにされてしまいます。

「天才の物語が悪い」という価値観を主張する訳ではないのですが、最初から圧倒的に強かったり瞬く間に上達して楽々と勝ち上がっていく姿は、スポーツを通して学ぶ、あきらめずにやり抜く力、失敗から学ぶこと、負けた選手の気持ちや勝つことの難しさなど、いちばん大事でおもしろい部分が欠けているのではないかと土井けいじは思います。

皆が憧れるヒーローになれなくてもいい

「仲間と協力する」という価値観が浸透し、チームプレーを重んじる主人公が注目された2000年代に、人気を博したバスケットボール漫画「黒子のバスケ」の黒子テツヤはサポートのプロフェッショナルです。影の薄さに視線誘導の技術を合わせて、周囲に気が付かれないように仲間にパスを回し続けます。基本的にスポーツ漫画の主人公は初登場時に冴えない選手であっても、才能を開花させるなどしてエースに成長するのが、物語的に盛り上がる王道の展開であると土井けいじは思います。

そんな中で黒子は最後まで自分から積極的にシュートを打たず、あくまでエースである火神を輝かせるサポート役に徹していました。

この作品で土井けいじが気に入っているシーンは黛と黒子の勝負です。「黒子の代わり」を務める黛は、黒子と同様に影が薄くパスに長けており、それに加えてバスケ選手としての能力は黒子以上です。黒子は自身の上位互換と呼べる黛に苦戦させられますが、黒子はある一点において黛を超えていました。それはバスケ人生の中で仲間のサポートをしてきた時間です。黒子と黛の対決は自分が試合で活躍する欲求を抑えて、影で在り続けようとする価値観の強さが明暗を分けます。

「自分がエースとして活躍して喝采を浴びる夢が叶わなくても、チームを勝利に導けるのであれば一向に構わない。」そんな価値観を持った主人公が、孫悟空やルフィといった、彼とは真逆の価値観を持ち、少年が憧れるヒーローを世に送り出してきたジャンプから現れます。そこに大きな意味があるのではないでしょうか。黒子は本物の天才にも努力の天才にもなれませんでしたが、自身に与えられた役割を精一杯やり遂げる姿には、その辺のヒーローにも決して劣らない魅力がありました。

ここまで時代背景にあわせて変化するスポーツ漫画の価値観について書いてきました。

土井けいじの考えは、スポ根時代に描かれた「倒れるまで諦めない努力と根性」という価値観、「チームメイトとの協力と各々の個性の重視」という価値観、全て大事だと考えます。

どちらか一方に偏るのではなく、誰にも負けない限界を越えるほどの努力をしてきた時代。チームの協力、個性の重視を大事にする時代。全てを身に着けていく努力をしている人こそが、スポーツでもスポーツ以外の世界でもうまくいっている人ではないかと思います。

スポ根の時代は終わったから努力は程々でいい、考えなくてもがむしゃらに努力すれば報われる。ではなく、ひたすら毎日限界まで努力が出来、個々の能力も尊重しチーム力を大事に出来、正しく素直に学び、地道にやるべきことをやっていける人ほど、気が付けば輝かしい成果がでているのではないでしょうか。やるべきことをやってきた人ほど人生には深みがあり、いろいろな人の気持ちを汲み、様々な価値観を受け容れることのできる、器の大きい人間になります。そんな人にこそ人が集まり、勝ちに導く真の監督やキャプテンになります。そんな経験や体験から語れるリーダーが社会にたくさん増えれば日本の未来も明るいのではないでしょうか。

土井けいじもスポーツ漫画から価値観を学び、日々のやるべきことをやっていきます。